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花尊し

花尊し

暮らしの様子

最近の真理子の様子 など♪

現在の症状

【孤立】0歳頃、とても静か。『おにたん』とは、何時も一緒。 猫や小犬は無視(その様にしか見えない)。大きい犬は恐がる。
    0歳頃からずーっと、人との関わりが上手く行かず、コミュニケーション障害。 誰とも協調不能。
【対人】1歳頃、クレーン現象、目を合わせない。 2歳頃、話は知らん振り、 抱っこはムズムズ。
    12歳頃から、人の名前を口に出し固有名詞で呼ぶ。 職員が小さい子を可愛がると焼餅焼き。
    自分のコントロールは15歳頃から意識的に。
    16歳頃、好きな職員には喜んでピョンピョン飛びつく。 「チューするよ」は嫌だけど、交換条件で何か「良い事有る」。
    19歳、懐かしい職員が自分を指して「だーれだ?」に名を呼ぶ。
【言語】1歳頃、マンマ、おいしい、バイバイのオーム返し。
    6歳頃から、2語文の意思表示。 15歳頃から、言葉、人の話の理解がかなり進歩。
【自傷】4歳、足をつねる。9歳頃から、手を噛んだり、足、顔をつねったり。
    11歳頃、舌をかみ切る。 自傷で舌が団子状に変形している所為か歯が曲がって生えてくる。
    17歳頃から、手の甲に噛み傷多数。
【他害】3歳頃、タクシーの運転手に掴み掛かる。4歳頃から、女の人の髪の毛を引っ張る。
    9歳頃から、人に掴み掛かり眼鏡を取る。 15歳頃から無抵抗の男子の髪の毛も引っ張る、 唾を掛ける、頭突き、・・
    18歳頃から体力が付き、頭突き・蹴りの威力強大化。 20歳頃からおとさんの顔を引っ掻く。
【多動】1歳頃から、チョコマカ、走り回る。10歳頃、多動ややおさまる。
【固執】2歳頃から、水遊び大好き。6歳頃、好みの長靴、 キラキラ光り、ツルツル肌触りの衣類にこだわり。
    8歳頃、水洗トイレで水遊び。
    10歳頃からずっと ちびまるこちゃんの毛布を大事にして、 寒い夜はみの虫状態にして寝る。
【常同】6歳頃、行動パターンの確認。
【奇声】3歳頃、大声で泣き喚く。4歳、唸るような奇声。7歳頃から、ウーーアーーという唸り声。
【食事】3歳頃から、手掴み。 15歳頃から、床に置いた食器からしゃがんだり正座で一人で手掴み。 スプーンも偶には使用。
    17歳頃から、食事介助(又の間に挟み込み手を拘束)欠かせず。
【拒食】2歳頃、飲料類のみの受付け。13歳頃、経管栄養。
【排泄】2歳頃、便器を蹴飛ばしそっくり返る。 3歳頃、所かまわず大便、小便。5歳、壁一面に大便擦り付け。
    7歳頃、腹が膨れた頃合いにトイレOK! 8歳頃から、便意表示。
    15歳、怪我のギブスに大便擦り付け。 髪の毛や耳に擦り付けるため洗い流し易いように、男の子の様にカット。
    16歳、大便を天井に投げ付ける。 17歳、パンツの中から大便を掴み取るや床に擦り付け。裸のときは身体にも擦り付け。
    19歳、裸で糞滴れ、掴んでは投げ付ける。 20歳、3ヶ月ぶりに生理、ベッドに括り付けられても器用に抜けて、・・
【睡眠】8歳頃から、正座で前かがみにうずくまって。
【着衣】4歳頃から、靴を脱ぎ捨てる。8歳頃から、着衣拒否。
【破壊】2歳頃、障子破り。 2歳頃から、紙破り。 15歳、本破り(ページ抜取)

~歳頃から;今も継続中の意味

薬物療法
自閉症そのものを治す薬は現在は存在しない。

療育方法
自閉症そのものを治す療育方法は現在は存在しない。

What's New
《更新情報》平成9年4月20日、開設。

最近の様子

関係書類を整理していたらこんなのが有った・・
《1990年7月12日》
院内学級の或る日

昼食時間に近くなり、片づけを していたら
真理子が引っ繰り返してしまい、次に、
片づけが半分くらいで、ワザと引っ繰り返すと、
にっこり! 、
また、
引っ繰り返す真似をすると、
「片づける!」

《2016年11月25日》
平成28年11月25日 保険証を届ける 何も食べさせていないのに
「ああああ」でゲロ
「おかさん 来る」
「おかさんは病気 病気なんだよ・・」

《2016年12月30日》
「おかさん 来る」
「おかさんは死んじゃったの 死んじゃったんだよ」

家族の事

▼父親、このホームページの作者、塩入正芳
昭和24年、北海道網走郡美幌町字日並にて開拓農家の長男として生まれ、 美幌町字田中1208番地に移転、
昭和40年、新設された高等専門学校に入学したが、会社は窓際。 酒は弱いがカラオケは歌う。 ゴルフはいまだハンディ30台。
平成21年3月31日、定年退職。
▼母親
昭和26年生まれ、専業主婦・・・
* 昔から虚弱体質と貧血で体調に波がある。
平成9年3月、諸々の心労が重なったか胃潰瘍を煩いしばらく通院、ピロリ菌の洗浄など療養した。
平成10年代後半~網膜前膜、高血圧、高脂血症、
平成28年7月ごろから腹痛を訴え 持病で通院していたK病院で 色々な検査を受けていたが
9月14日になってようやく 膵臓癌で肝臓にも転移していることが判明した。
膵臓は胃と肝臓の間に有って分かりづらい らしいのだ。 この時点でステージ4(末期)、 手術不能で余命半年の宣告を受けた。
その後、入退院を繰り返し 抗癌剤などの治療を続けて来たが 進行を抑えるだけで治癒は望めないということで ほとんど痛みどめがメインの治療だった。
12月8日昼前に病状が悪化したと医師から電話が有り 駆け付けたのだが息子の呼びかけにうなずくなど 意識ははっきりしていたのだが急速に衰え
8日午後7時42分 帰らぬ人となってしまった。 65歳になって1ヶ月少々 あっけない別れであった。 葬儀は身内だけで静かに送った。
真理子35歳の誕生日に逝ったのは偶然なのだろうか?
▼兄
昭和55年生まれ。
▼真理子
昭和56年12月8日生まれ・・12月8日、 真珠湾奇襲攻撃の日。
・・日米関係が破局を迎えるのは、もはや時間の問題だった。
「マリコの病気は悪くなる一方です。高熱が下がらないのです。このままでは危険です。」 と、同じことを繰り返すばかりだった。
春の頃には、「マリコは元気になりそうです。あまり丈夫ではありませんが、 希望を持っていいと思います。」といえるときもあったが、
いまやそんな希望など どこか遠くへ吹き飛んでしまっていた。・・・柳田邦男『マリコ』より
暗号の少女マリ子。父の努力も空しく日米開戦。
命名の時は、こんな様な状況がまさか現実になるなどとは思ってもみなかったが・・・

病院(静療院)の事

市立札幌病院付属静療院(札幌市豊平区平岸)

生まれた頃は、進歩の遅い子だって居るさ、と楽天的に・・
情緒障害ではないか、と言われても、少し発達が他の子よりも遅いだけだ、と・・
精神科の専門病院で小児精神科がある静療院で初めて診察と検査。
両親までアンケート風の検査。
どんな結果が待っているのかと、長い長い不安の一日だった。
「様子を見ながら対処していきましょう」とだけ言われ、病名は告知されず。
病院の外に出た時は、正直ほっとする。
それからは、いろいろな書籍を買い求め、真理子の状態と突き合わせ、 これは自閉症に間違いない、と確信。
必要があって診断書を書いてもらった時、正式に告知。
やっぱりそうだったか・・、 と割とすんなり受け入れることはできたものの、ショックは大きかった。
・・・病名『自閉症』・『精神遅滞』昭和61年11月20日付 [医師は設楽雅代先生]

昭和62年4月、入院。

静療院は、今はマンションに囲まれ、すっかり街の中であるが、 ずっと昔は、何も無い原野の中にぽつんと建物が一つあるだけの所で、
山奥から送電線を引く時の唯一の目標物だったということである。

学校の事

院内学級として昭和49年設置。昭和63年4月、入学。

平成2年7月12日の北海道新聞に『自閉症児らに体罰』 という見出しで大きく報道されたことがあった。
掃除のバケツの水で遊んでいた女子児童に 「そんなに水が好きならかけてあげよう」 とバケツの水を頭からかけたという。
感受性の強すぎる生徒には、真剣なスキンシップ も暴力に見えたかもしれない。
当の本人は、病棟に来たその先生を見て「学校に行く」 と言って、とても懐いているのである。
これが契機となって、分室から分校に格上げされ、 プレハブの粗末な校舎が立派な鉄筋コンクリート造りに新築された。

春と秋の遠足、バス遠足、体育祭
京極町宿泊学習(吹き出し、花火、羊蹄、中山峠)
文化祭

平成6年3月16日、小学校の卒業式。卒業アルバムに武者小路実篤詩集より 『一筋の道を歩くなり』を贈られる。

平成9年3月18日、中学校の卒業式。「おめでとうございます」。 一瞬「??」。あっと言う間の9年間、今日は真理子の晴れの日・・・

のぞみ学園の事

平成9年6月2日、小児病棟の病室から院内の『のぞみ学園』へ引越し。
部屋はこちらも2階の個室。 静療院のぞみ学園は第一種自閉症児施設であるが、 長期入院者が過半数を占め、実質的に成人施設化している。

平成10年1月、 健康診断 141cm & 41kg
平成11年9月24日、 自閉症などの強度行動障害の有る人の 療育充実を求める陳情(札幌市議会厚生常任委員会)、
趣旨はうちの真理子をはじめとする大人に成りつつある子供達の生活の向上と、 安全に配慮した公的入所施設の設置のお願い!

平成12年3月31日、 真理子が13年にも渡って親身なお世話になった 設楽雅代先生が退職。

平成13年12月8日、 真理子二十歳の日を迎える。

平成17年3月 日、 療育手帳の障害の程度の再判定を受け 症状固定と判定され以後再判定手続き無しの扱いとなる。

児童心療センターの事

平成24年4月、静療院から成人部門を切り離し、児童心療センターに改組、 小児精神科の医師5人中4人が辞職願を出した。

平成24年12月5日、退職予定のK医師との面談
母親)成人の子でも民間で手に負えない子は公的機関が診て欲しい
医師)市の本院成人は3か月の短期と急患専門で、福祉施設は施錠、身体拘束不可.故に病院しか行先は無い

父親)小児精神科の医師が、もう成人の子を診ることについて、規則上問題は解るが医学的にはどうなのか
医師)成人の精神科では自閉症を扱えないかも知れない

平成25年10月4日、後任のK医師との面談で、 受け入れてもらえる病院を検討することになる。

A病院の事

平成25年12月4日
A病院は民間の精神病院だ。
手枷足枷で24時間365日、いったい何の罪だというのか? 今日から真理子の終身刑が執行される・・

平成25年12月8日
今日で真理子32歳

母親の呟き

・・・言いたい事は山ほど有るけど、もうそっとしておいてほしい

付録・・

付録・・。付録の人もいないし、付録の人生もない。





暗号名はマリコ
アメリカ国立公文書館でFBIの寺崎ファイルと呼ばれる文書が発見される。 日本の外交資料館には寺崎英成が日本に宛てた暗号使用指示書なるものが存在し その暗号名がマリコ。 マリコは寺崎英成とグエン・ハロルドの娘。 寺崎英成はマッカーサーと天皇の通訳として知られる外交官であり、 日米開戦の前夜、アメリカの日本大使館の一等書記官をしていた。

英成がアメリカ人女性・グエンと出会うのはワシントン日本大使館で開かれたパーティー。 昭和6年、2人は結婚、翌年マリコが生まれる。 昭和15年、英成はアメリカ・ワシントン勤務を命じられる。 日本では軍部が力をつけ日米開戦への道を突き進む中、 英成の兄で、外務省アメリカ局長をしていた寺崎太郎は 日米交渉には現地情報が必要だとして暗号を使用することを提案する。 電話は盗聴されるのでマリコの名が暗号につかわれ、 「アメリカ側の日本に対する態度」のことを「マリコ」と呼んだのである。 「マリコは病気になった」と言えば 「アメリカ側の態度は悪化している」という意味だった。 FBIはすでに英成の情報収集活動に目を付け、 英成がワシントンに着任するなり監視を開始、 電話の盗聴、尾行、手紙の開封まで克明に記録、 それが寺崎ファイルであった。

日米交渉は紛糾を続け暗号マリコの状態は日に日に悪化、 英成は戦争を回避するため、天皇の口添えには軍部も反対できないはずと、 ルーズベルト大統領に直接働き掛け大統領が天皇に親電を打つ という和平工作にかかわる。 ルーズベルト大統領の親電が翻訳され天皇の手に渡ったのは 昭和16年12月8日午前3時過ぎ、真珠湾攻撃の30分前であった。

日本へ帰国、鬼畜米英憎しの風潮のなか マリコは棒でたたかれ石を投げられ、 グエンは女スパイと罵られ、 特高が寺崎家に目を付け誰も寄り付かなくなった。

終戦後、英成は日本政府とGHQの連絡業務をする連絡官として復職、 翌年、吉田茂首相から宮内庁御用掛を命じられ、 天皇とマッカーサーの通訳担当官になる。 マリコの将来を考えアメリカで教育を受けさせようとの英成の強い説得に グエンはマリコをつれてアメリカへ帰る。 それから一年後英成が死ぬ。

後にグエンは家族の絆を綴った回想録「太陽に掛ける橋」を出版する。 マリコが英成の遺品の中から昭和天皇独白録を発見するのは、 英成の死後40年のことである。

マリコはアメリカで大学に入り、結婚し、政治活動に目覚めていく。 ワイオミング州キャスパーで一人の女性が日本国名誉領事官を勤める傍ら、 ひたすら世界平和を願う講演を続けている。 彼女の名前はマリコ・テラサキ・ミラー
 
 
 
 
 
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